東京タワー
リリー・フランキー「東京タワー」
もんのすんごいベストセラー本である。
最寄の図書館から「予約の本が返ってます」と電話がきて、はて、そんなもんしてあったかな、と取りに行ったらこれであった。
予約したことなんか忘れるくらいず〜っと順番の回って来なかった本。
貸し出しの時「たいへん人気のある本ですから、お早めに」と、念まで押された。

リリーさんの幼少時から、お母さんがガンで亡くなるまでの密接な関係を、素朴な方言をちりばめながら語った作品。
私はよく仕事の待ち時間にコーヒー屋さんで本を読んでいるのだけど、後半は絶対外で読めない。
リリーさん、ずるいわ、これ。
こんなん、絶対泣くやん。

しかも号泣。ここ数年でこんなに泣いた事はないというくらいの。
声を殺してると呼吸困難に陥るのでしょうがなく、わんわん言いながら泣いた。
十五の時、私は母を亡くしている。
やっぱり、ガンだった。

母は、美人だった。
授業参観やら三者面談やら運動会やら、何かある時は普段すっぴんの母がうっすらとお化粧をする。そんな時は娘の私ですら「おっ!」と思った。
その翌日、担任の先生がびっくりしたように言うんだ。「坂井のお母ちゃん、べっぴんさんやなぁ」
嬉しかった。

私が十三の時、レントゲンで異常が見つかって母は検査入院することになった。
私の中学は昼がお弁当持参だったので母はしきりにそのことを気にして、「早起きして作らないかんね。ごめんね。でももうすぐ夏休みやから、ちょっとだけ頑張ってね。お母さん、すぐ退院するから」なんて言っていた。

でも結局見つかったのはガンで、母はそうやすやすと退院できなくなってしまった。
「ごめんね。もうすぐ二学期始まんのに、またお弁当たいへんやなぁ。お父さんにチンしたらいいだけの冷凍食品買っといてもらうよう、言うとくからね」
この人は、アホやろか。自分がガンで大きな手術をせないかんという時に娘の弁当の心配なんかしてる。
泣きそうなのを我慢しながらそう思ったけど、「東京タワー」を読む限り母親というのは、そういうものらしい。

でもこの時誰も私に教えてくれなかったけど、手術の成功率は極めて低く、すでに余命六ヶ月宣言が出されていたのだった。

それでも母は一生懸命頑張った。余命六ヶ月が二年に延びた。
お腹にでっかい十字架の傷ができるくらい手術を繰り返した。
抗がん剤で髪が抜け落ち、再び生えてきたものは縮れてごわごわで、もとのまっすぐで綺麗な髪じゃなかった。
丸山ワクチンも打った。父が毎朝絞ってくるまずそうなケールのジュースも我慢して飲んでいた。誰かがガンに効くと言っては持ってくるマユツバな薬も飲んだ。
モルヒネでたまに、頭がおかしくなった。

それでも母はやせ衰えていった。
ごはんが食べられなくなっていった。
最終的には自力で排泄できなくなり、お腹に穴を空けて人工肛門が取り付けられ、そこから液状の便を垂れ流した。
こうなるのだけは嫌だと、ずっと母は言っていたのに。

父はその処理を看護師任せにしなかった。
私が赤ちゃんの頃、オムツを開いてみて中身がウンチだったら母を呼んでバトンタッチしていた父が、手が汚れるのも厭わず便のたまった袋を取り替えた。
それをトイレに捨てに行くのが、私の仕事だった。
容器を綺麗にしてトイレから戻ってくると、母は決まってすまなそうに「ごめんね」と言った。

すっかりミイラみたいにやせ細って、でもお腹だけは膨れた餓鬼みたいになって、母は死んだ。
八月十五日、終戦記念日だった。
「お母ちゃん、べっぴんやな」と言われた時の面影は、どこにもなかった。

とても強い人で、私に一言も「痛い」だの「しんどい」だの言わなかった。
母の兄の嫁が、「でも痛みはあんまりなかったみたいやったね。痛い痛いって言われたら辛いけど。それだけが、救いやね」なんて無責任なことを言っていた。
私は「そんなはずあらへんやろ、このヒヒババァ」と思ったけど、黙っておいた。

「もうあかんて言われてたのが、二年生きたんやもん、よかったなぁ。よう、頑張ったわ」
精進落としで赤ら顔しながらそんなことを言う親戚たちが、大嫌いになった。

「あんな辛い思いして、延命する意味あったん? 生き延びたゆうたって、ずっと毎日しんどいだけの二年やん。最後は人工肛門やで? 私がガンで、もう助からんのやったら、そのまま死なしてほしいわ」
ずいぶん経ってから父に、そう言ったことがある。
「意味は、ある」
と、父は言った。
「あのまま死んでたら、お母さん十三のお前しか、見られへんかったやろ。一生懸命頑張ったから、十五のお前が見れた。もうちょっと頑張ったら、十六やったのになぁ」
母は最期まで、私の心配ばかりしていた。

でもそんなのは、父がそう思いたいだけじゃないかと、思った。
その二年間の選択が間違いじゃなかったって、自分も自信がないから、そう信じたいんでしょ。

「東京タワー」を読んだ。
いっぱい泣いて泣いて泣きまくって、少し救われた。
死んでもなお、息子を想うお母さん。子供のために自分の人生を切り分けて、「我が子の優しいひとことで 十分過ぎるほど倖せになれる」とメモしたお母さん。
もしかしたら私の母も、本当に私が十三から十五になるのを見るために頑張ったのかもしれないと、少し思えた。

姉は今ではもう、母になっている。一歳と三ヶ月の息子がいる。
今度会ったら聞いてみよう。
「自分がめちゃめちゃ辛くても、子供が一歳でも二歳でも大きくなってくのが見られるんやったら、頑張れる?」

でも一つだけ、悔やんでも悔やみきれないことがある。
医者に今夜が山だと言われ、身近な親戚も病室につめかけてゴチャゴチャしていたとき。
ずっと母は意識不明で、ものすごい人口密度と辛気臭い顔に息が詰まって、私は少し外の空気を吸いに行った。病室の、のしかかるような空気の重さに堪えられなかった。
ちょうどその時、母の意識が戻ったそうだ。
うつろな目で病室を見回して、ひとことだけ、言った。
「キクちゃんは?」

私が戻った時には母はまた昏睡していて、そして二度と意識が戻らないまま、逝った。

何もしてあげられなかった。
まだまだ子供で全然力もなかった。
でもなんで、最後の時くらい「ここにいてるよ」って手を握ってやれる所に、いてやらへんかったんやろ。
自分がしんどくって、逃げた。
母はさぞかし私のことを、薄情な子や、と思って死んだやろうなぁ。

せめて私が母親になった時は、お母さんがしてくれたみたいなことを、してあげよう。
いっぱい愛していっぱい叱って、一緒に成長していこうって言える母親になろう。
そう思ってたけど、どうやら結婚も出産も、私には縁がないようだ。

ごめんなさい、お母さん。
「ありがとう」って言いたかったけど、それを言ってしまうとお母さんが死んでしまうのを認めるみたいで、生きてるうちに言えなくて、ごめん。

ありがとう。
死んでからめっちゃいっぱい言ってるけど、ちゃんと届いてるんかなぁ。

トラックバック

このブログ記事に対するトラックバックURL:

コメント & トラックバック

泣いた。
「東京タワー」にではなく、kikuさんの文章に。
何から書こうか。

私もこの世で一番大切だった人を見送った。やはりガンだった。綺麗事ではすまない関係の人だったけれど、半年間毎日病室に通った。
丸山ワクチンやメシマコブ、霊芝、あらゆるものを入手するために駆けずり回りもした。ガンの痛みとはどういうものか、モルヒネによるせん妄とはこういうものなのか、肉体が朽ちていくとはこういうことなのか、と目の当たりにした。

「また明日ね」「うん」というのが最後に交わした言葉だった。「明日」が必ず来るものではないこともそのとき知った。

そう、私自身もガンで入院したことがある。卵巣ガン、ということだった。当時息子は4歳で、そのことだけが気がかりだった。入院中に息子の面倒を見てくれるシッターを選ぶために、3人の人を1日ずつ試用したり、大量のクッキーや日持ちのするパウンドケーキなんかを拵えて、自分の病気や手術のことはあまり考えていなかったような気がする。
母親というものは、やはりそういうものだ。

結局卵巣の腫瘍は良性で(つまり誤診だったわけだ)私は生還して、まだグダグダと生きている。

泣いた。
どんな言葉も、今もって入る感情を表すには陳腐だと思う。
情けないほど、軽いと思う。
だから、泣いた、とだけ。
ねえさんを好きよ。
いっぱいいっぱい、好きよ。

>momojiriさん
大切な人を見送ると、悲しいけどいろんなことが分かってしまう。分からないままのこともある。
病人の気持ち。想像つかないほどの痛みと消耗を毎日毎日耐えて、どんな気持ちだったんだろうなぁ。
「momojiriさんにそんなによくしてもらえてその人もきっと幸せだったよ」なんて言葉はただ薄っぺらいだけ。
だけどそんな大切な人に出会えて、よかったね。
とてもとても、悲しいけど。

病気がmomojiriさんの息子さんから母親を奪っていかなくてよかった。本当によかったと思います。
「母親というものは、やはりそういうものだ」
そうか、嬉しいな。

私もmomojiriさんに出会えて本当によかった。
だからこれからも、グダグダ生きてください。
大好き♪

>makeek
アンタはほんまに、ええ子やねぇ。
お姉さん、いつもびっくりするわ。
私もアンタのこと、大好きよ。
嬉しいこと言ってくれてありがとう。
私は幸せもんやなぁ。

あほ
こんなとこに書いてないで、小説にせんかい!

ごめんなさい。
kikuさんへのコメントがまったく浮かびません。
励まそうとか、なんかええこといってやろうとか、
そんなことはあまり考えてないんですが…
kikuさんのことより、自分のことを考えてました。

私も去年、初めて身内と呼べる人を亡くしました。
じいちゃんです。
すでに片足がなく、母と父とばあちゃんに介護してもらっている状態でした。

亡くなる前日、「今夜が山だって」と母に電話で言われ、
その翌日、仕事のお昼休みに母に電話して、「もう覚悟はしといてね」と言われ、
夕方定時ダッシュで会社を後にしました。
その実家に帰る電車の中で、母からメール。

『ごめんね。おじいちゃんは待てずに逝ってしまいました。』

そのとき、なんか、とても重いものにのしかかられたような気がしました。
一体何しに帰ってるんだ…?
なぜお昼休みの時点で帰らなかった…?
意識があったかどうかわかんないけど、
せめて息を引き取るその場に居合わせたかった。
最後に会ったのがその年の正月。
もう最後に交わした言葉なんて覚えていない。
(一体自分は何をしとるんだ…)と、しばらくの間自問自答していました。
今でも、じいちゃんのことを思い出しては考えてしまいます。

来月7月初めに一周忌があります。母は、
「帰ってこられる?仕事があるなら無理せんでええよ。」
と言ってくれました。
その言葉に甘えようとしていた自分が…とても恥ずかしくなりました。
私が一周忌に実家に帰ることで、じいちゃんが喜んでくれているかどうかはわからないし、知る由もないけど、
自分がそうしたいから。帰ります。
こんなの、全然無理じゃない。

kikuさんのブログを今日読んで、
じいちゃんのことを思い出して、
そんなことを考えてます。

あんまし確認しないでロードしちゃいましたが…
↓思いのほか長すぎですね。ごめんなさい。

13歳。
私の父も私が13歳の時に胃がんが発覚し、
手術の成功率も50%程度だと言われておりました。
結果、幸いなことに手術が成功したのだけれど。

kikuさんの記事を読んで、
その頃のものすごく不安な気持ちを思い出しました。
『パパが死んでしまうかもしれない』
それは何をしていても払拭できないもので、
母親に
「最悪な場合、ママがいるじゃない」
と言われても、それとこれとは違うんだ!と思っておりました。

ちなみに私も東京タワー読みました。
私はそれでおばあちゃんのことを思いだしたので、
その記事TBさせてもらいますね。

東京タワー

基本的に、本は図書館で借りることにしている。
手元においておきたい作家以外は、
浅く広くいろんなものを読みたいからだ。いやっ、正直なところ興味のある本をすべて買っていたら金銭的にキビシイからなのだけれど・・・
そんな私がリリーフランキー氏の『東京タ

>じい
ほんまよねぇ。
でも十年以上も経ってるのにまだ客観的にかけないんだ。
だから、もうちょっと大人(オバハン?)になってから書こうと思うのです。
そん時ゃ、いいの書けるんじゃないかな。

>つきいちさん
長くてぜ〜んぜんOKですよ。
私の文章で大事な人を思い出してくださったなら嬉しいです。
誰しも、大事な人を喪失しながら生きていくのだと思うし、命の意味も身近な人を亡くしてみてようやく真剣に考えるのだと思います。
おじいさんの一周忌、皆でいっぱい思い出話しして笑ってください。
それが一番の供養だと思うから。

>染谷水音さん
おばあさんへの想い、読みました。
身近な誰かがいずれいなくなってしまう、あたりまえのことなんだけども、なぜか自分の近親者はいつまでもいつまでもいると思い込んでいる。
誰にでも訪れる死が素通りしてくれると無邪気に信じていた幸せだった頃。
亡くしてからようやく、いろんなことに気づくのですね。悲しいことだけど、大切な人の死は自分を大きく成長させてくれました。
水音さんのお父様、手術が成功してよかったです。
それにしても「最悪の場合ママがいるからいいじゃない」と言えるお母様もすごいなぁ…。

こんにちは、KIKUさん。
なんだか今の自分の気持ちと同じようでレスしています。 母を先月ガンで失い悲しみに暮れています。KIKUさんのお母様への思いが自分のものとだぶっています。母は腹膜のガンで闘病7ヶ月でこの世を去りました。

私は海外で生活しており母とはしょっちゅう電話で話していましたが、そうとうきつかったのに私には治ったら遊びにおいで!母は私の仕事の忙しさ子連れでの帰国は金銭的にも負担だとわかっていたようで、世話をしていた妹には病状をくわしく私に説明しないように言っていたようです。父からのあと数ヶ月の余命らしいと聞いて、迷わず日本へ!母の元へ
行きました。2年ぶりに見る母はやせこけ腹水でおなかが大きく、痛い、痛いと苦しんでいました。
もう長くないと悟りました。2歳になる孫を見せました。母は痛みと苦しさの中なんとかこちらを見てくれました。

母は私が子供の頃、グレたのは自分のせいだと思っていたようで、「初めてのこだから厳しく躾けて悪かったね」と私に言いました。そして父に航空券の代金あげてよ、約束したでしょう!痩せて目だけぎょろぎょろしている母は怖かったです。。
こんな死ぬ間際まで私の事を考えてくれてたんだと思うと、その場で大泣きしてしまいました。
親孝行したくてももう母はこの世からいなくなる。
その次の日は意識不明になり、静かに息を引き取りました。もっともっとお話したかった。
2年も仕事とはいえ、帰らなかった自分に後悔しています。母って強いですよね。

ながくなったけれど、なんだか自分の今の気持ちと同じようでレスしました。
いつかまたこの母から産まれてきたいな〜なんて思っています。
何年たってもつらいんだろうな〜
迷わず飛んで会いに行く!それも大事なことだと痛感しました。KIKUさんのように私も母にありがとうって一杯言いたいです!届くといいですね!
いや届くと思います。この世にいなくとも母と娘ですもん!

>OZZIEさん
母は強し、と言いますが、あの自分を措いても子供のことを考える強さは、どこから来るのでしょうね。まだ母になったことのない私には、分からないです。
OZZIEさんはお子さんがいらっしゃるから、お母様の気持ちも少し、分かるかもしれませんね。
生まれ変わるとしてもまたあの母から生まれたい、その気持ちは私も同じです。
それともあの胎内に還りたい、でしょうか。
いつまでも、母の温もりに包まれていたい生き物なのですね、ヒトって。

Comment feed

コメントする


Warning: Parameter 1 to multibyte_patch::wplink_js() expected to be a reference, value given in /home/users/0/unicus/web/cybernovels.jp/sakai/wp-includes/plugin.php on line 580

Warning: Parameter 1 to multibyte_patch::word_count_js() expected to be a reference, value given in /home/users/0/unicus/web/cybernovels.jp/sakai/wp-includes/plugin.php on line 580

Warning: Parameter 1 to wp_default_scripts() expected to be a reference, value given in /home/users/0/unicus/web/cybernovels.jp/sakai/wp-includes/plugin.php on line 580

坂井希久子

2008年オール讀物新人賞受賞。小説家の端くれのそのまた端くれ。
翼広げて大空にはばたくぞ! と言いつつ、まだたまごには「ひび」くらいしか入っておりません。
それでも、小説が好き。あと、着物も好き。
どちらも奥が深いことでございます。
死ぬまでには、真髄にちょこっとばかし触れたいな。

アーカイブ